私たちは辺境にいる.中心から遠く隔絶している.だから、ここまで叡智が届くには
長い距離を踏破する必要がある.
わたしたちはそう考えます.それはいいのです.
でも、この辺境の距離感はわたしたちにあまりに深く血肉化しているせいで、
それがまさにこの場において霊的成熟が果たされねばならないという緊張感を
わたしたちが持つことを妨げている.霊的成熟はどこか他の土地において、
誰か「霊的な先進者」が引き受けるべき仕事であり、私たちはいずれ遠方から
到来するであろうその余沢に浴する機会を待っているだけでよい.
そういう腰の引け方は無神論者の傲岸や原理主義者の狂信に比べればはるかに穏当なもので
ありますけれど、その代償として、鋭く、緊張感のある宗教感覚の発達を阻んでしまう.
辺境人は外部から到来するものに対しては本態的に開放性があります.
これはよいことです.けれども、よいところは必ず悪いところと対になっている.
遠方から到来する「まれびと」を歓待する開放性は今ここにおける霊的成熟の切迫と
トレードオフされてしまう.
今、ここがあなたの霊的成熟の現場である.導き手はどこからも来ない.
誰もあなたに進むべき道を指示しない.
あなたの霊的成熟は誰の手も借りずにあなた自身が成し遂げねばならない.
「ここがロドスだ.ここで跳べ」.
そういう切迫感が辺境人には乏しい.
内田樹 「日本辺境論」