わかる
・・・君の出した結果は確かかと聞かれた時、確かなら確か、
そうでなければそうでないとはっきり答えられるようにしておいてほしい
ということである.
でないとあとの教えようがない.
この確かさに信頼して初めて前へ進めるのだから.
つまり右足を出してそれに全体重を託し、次に左足を出してまた体重を
託するというふうに一歩一歩踏みしめて進んでいくのが科学の学び方に
ほかならないのだから.
しかしこの学び方ができるかどうかは小手先の技術の問題ではなく、
むしろ道義の問題である.
ある程度「人」ができなければ、何を学ぶこともできないのではないか.

 室内で本を読むとき、電灯の光があまり暗いと、どの本を読んでも
はっきりわからないが、その光に相当するものを智力と呼ぶ.
この智力の光がどうも最近の学生は暗いように思う.
わかったかわからないかもはっきりしないような暗さで、
ともかく光がうすくなった.・・・

手短かにいうと,知的センスというものがまるでないのだ.
このままいけば、人に指摘されてもわからない
ということになりはしないかと恐れる.
これは、わかったかわからないかもはっきりわからないのに、
たずねられたらうなづくというふうな
教育ばかりやってきたために違いない.

      岡潔『春宵十話』
by yoshiaki_works | 2010-03-16 10:11 |


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