友 福永純三
1周忌の前日に友の霊前に参るために、大阪岸辺のご自宅を訪ねた.
リビングに位牌があって、まわりに思い出の写真達が飾られていた.
「まだお父さんがいなくなった実感が湧かなくて・・・」と
30数年ぶりに会う奥さまは静かに語ってくれた.

位牌の横に彼とバイクで雲仙に登ったときの2枚の写真があった.
40年前に私が自動シャッターで撮ったのものだ.
CB450のシートに両肘をあてて、彼ははにかむように笑っていた.

建築学科に入学したとき、
ひとつ年上だった彼は酒は強かったが、パチンコと麻雀はほどほどだった.
ギターを弾いてフォークを歌ったが、てれ屋で言葉数は少なかった.
運動神経抜群で空手の有段者だったが、乱暴者じゃなかった.
栗色の巻き毛で女の子には持てたが軟派じゃなかった.

彼と私は同じ建築歴史研究室で太田静六教授と土田充義助教授に習った.
太田先生は一昨年サイパンで亡くなられた.98歳だった.
土田先生は今も宗像でザビエル教会再建に全霊をつぎ込んでいる.

彼の卒業研究は忘れたが、卒業設計を覚えている.

JR博多駅と西鉄バスセンターをリニューアルする大きな計画だった.
「福岡のまちでいちばん不便かとは博多駅やん.
博多駅ばなんとかせんと福岡はようならんって.」
歴史研究室のくせに都市計画的で実務的な計画だった.
(ちなみに、翌年私の卒業設計は東シナ海の孤島に建つ修道院.)
そして、大阪の地で彼は最後まで大きな現場の監督を勤めた.

彼が亡くなった翌年の今年3月に新博多駅舎が完成して、九州新幹線が開通した.

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福岡の同級生たちと飲んだ帰り、ひとり千鳥足で駅前広場を歩きながら、
見上げると、新しい駅舎とバスセンターがまぶしかった.
学生の頃の彼が夢見ていた光景がここに在るような気がした.

輝くまちの風景がにじんだ.
by yoshiaki_works | 2011-08-03 10:10 |


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