友 吉田圭一郎
吉田圭一郎の両親は長崎県五島列島の南に浮かぶ小島「黄島」の出身だった.

長崎の吉田の家は原爆被害で坂本町の石段の上に残された「一本脚鳥居」の横にあった.
僕は長崎で3階引っ越したが、吉田とはたまたま小学校,中学校、高校が同じだった.
彼は中学校では体操部だった.懸垂が2回もできない僕は彼の大車輪が眩しかった.

酒飲みの親父ととびきり美人の二人の姉がいる彼の家は学生時代の仲間の溜まり場.
吉田と西田と尾崎や武田や津留崎たちと朝まで飲んで、朝起きてまた飲んでいた.
モーツァルトと小林秀雄と寅さんを語っていた.(酒に弱い僕はほとんど寝ていたのだが)
船乗りの彼の親父は長崎を出港したばかりの船上で亡くなった.55歳だった.
仲間たちと酒を飲み、鐘をついて、爆竹を鳴らしながら、彼の親父を送る精霊舟を担いだ.
僕の妹も提灯を下げて、精霊舟のあとを大波止までついて歩いていた.

東工大で社会工学を修めた吉田は、都市コンサルに勤めて交通計画の専門家になった.
ふらりと福岡に寄って、アラビアやアジアや南米での仕事の話しをしながら将棋を打つ.
今日は東京に帰ると言いながら、酔っぱらって風呂に入ってまた泊まっていく.
彼の話は風が吹き抜けるようで飽きることがなかった.
コンタクトの彼を、娘たちは「うろこのおいちゃん」と言ってなついていた.
役人OBを天下りで引き受けて、国のODA仕事をこなしているうちに、嫌気がさしたあいつは40代で会社を辞めて独立した.それからは国内の仕事が多くなり、博多や大阪で彼と飲む機会も増えた.

僕は50歳すぎて初めて下五島に渡った.
空いた時間に堂崎天主堂を訪ねて御堂のフロアーに転がって天井を眺めていると、聞き慣れた声がする.吉田が離島の道路調査の合間に同僚と天主堂の祭壇を見学していた.
その日は福江島で宴会になった.

その後九州での仕事が増えた彼は福岡に単身で引っ越してきた.
それからは月に一二度は博多や美野島や高宮で焼鳥をつついた.
気の合う飲み仲間が近くにいることに代わる喜びはない.
気兼ねなく怒鳴り、笑い、突っ込み、そしてたまに褒め合いながら飲む酒は格別だった.
いつも「あーっ、うまかった.じゃ、またね.」と別れた.

2007年の盆明けに、小さな台風が鹿児島から上陸して、
2昼夜をかけて九州を縦断してゆっくりと福岡を抜けていった.
風は強くなかった.
雨は降り続いていて台風は福岡の真上にいた.
20時ごろに仕事を切り上げた彼は東京の子どもたちにメールを打ち、
美野島の行きつけで飲んで、
コンビニでアフターシェーブローションを買って、
アパートに帰る途中、
日赤通りで2台の車にはねられた.

嵐の夜に風と一緒にあいつは逝った.55歳だった.
逝っちまったらもう逢えない、
記憶が更新されることは二度となく、ただ想いだすだけ・・・

日赤通りの仏壇屋の大きな仏像が今でも事故現場を見下ろしている.
by yoshiaki_works | 2011-08-28 14:15 |


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